CoM0 TrB0
人が人と関係を作るとき、基本は一対一である。
だけど先生が子どももを相手にする際、一対多数になることが多くなる。
だけど考えて見よう。
子どもにとってその場にいる先生は一人である。
つまり一対一なのだ。
だからこそ子どもと先生の関係性っていうのは大切だ。
そこに子どもとの関係性があれば一対多数は一対一の連続へと考えることもできると思う。
具体的に子どもとの関係性はどうするか。
大人と同じで好きになってもらうのがいちばん分りやすい。
そのためには約束をまもる、返事をするなど当たり前のことが必要じゃないだろうか。
それをしないで子どもが言うことを聞いてくれない、なんて言ったって子どもだって聞きたくないだろう。
子どもが言うことを聞くか聞かないか。これは結局関係性が重要なのだと思う。
その一つとして一対一なのか一対多数なのかによりまた関係の作り方が変わるのだろう。
保育・子ども関連
2008.02.28
CoM0 TrB0
いまさらながら、子どもも一人の人間である。
いや、軽視してたつもりはまったっくなかった。子どもの意見も聞かなきゃとか、ありきたりなことを考えてはいた。
だけど、実際自分の行動を振り返ってみた。
本当にあってたのかな、と思う。
ほかの先生が、言うことを聞かない子といって、何人か名前を挙げることがある。
たしかに、いったことと反対のことをわざとやったり、何度言ってもなおらない子とかもいる。
それは、普通のことなんじゃないか。
子どもの自己表現であって、それを良いか悪いか教えてあげることが必要だと思う。
バイト仲間のある人が、子どもってある意味残酷ですよね、と言ってきた。
確かに、大人の倫理・前提から残酷に感じることもある。
思ったことを平気でいうし、うそだってつく。簡単に人を裏切ったりもしてしまう。
それで傷つくのは、わかる。
だが、残酷なのは今見てる子どもたちだけだろうか?
自分や、自分の同年代の人が彼らくらいのときはどうだったのか。
そういうことを考えてみて欲しい。
例として、自分を挙げてみる。
自分は、昔からやりたいことをどうにかしてやろうとする性質がある。
なにかを見つけたらほかを犠牲にしたりする。
だから、遊びたいがために片付けたフリをしたり、ゲームがやりたいからトイレにこもってゲームボーイをやったりしたこともある。
そういったものを、今、客観視してみると、何度いってもやめない悪い子・問題児に部類されると思う。
もしかしたら自分は特殊だったのかもしれない。
だけど、こういったことをやっていたことがない人はいないと思う。
つまりは、子どもは我慢だったり自己表現がうまくできないのだ。
遊びたいものがなければ、その辺を走り回って自分の暇を遊びに変えてしまう。
子どもは遊びの天才とよく言うが、このことだろう。
だけど、部屋で走り回れば当然先生は子どもをしかる。しからなければならない。
そのときに、ただ叱るのではもちろんだめ。
怪我するから走らない、部屋は走るものじゃないと教えるのも大事だ。
だけど自分は、じゃあどうしたら良いかを考えさせる・一緒に考える・興味を持つ遊びを提供するなどをしていただろうか。
大人がなにか条件を制限されたとき、考えるということをする。
それは考えればいいと知っているから。
子どもと大人の違いは経験の差だとふと思った。
考えるということを知っている大人は、それを教えてあげるべきなのかな。
言う事を聞かないなら、言う事を聞きたいように仕向ける。
このことなら子どもはいうことを聞く、むしろ自分から喜んでやる、そんなことを考えなければいけない。
そんな風に感じる。
あとは、実際どこまでできるか。
これをやるには、しっかり観察しなければならないし、子どもをわからなければならないし、子どもと一緒に遊べなければいけない。
ここから自分は先に進めるか。
がんばってみたい。
保育・子ども関連
2008.01.30
CoM0 TrB0
この間、人間ジャングルジムをやった。
少人数だったのに、なかなか盛り上がった。
当然、自分は足が痛くなる。
自 分:「足がプルプルいってるよ」
子ども:(耳を傾ける)「聞こえないよ〜?」
なんかほほえましかった。
保育・子ども関連
2008.01.27
CoM0 TrB0
児童養護施設とは「環境上養護する(過程環境が悪く、過程での生活が困難)と児童相談所が判断した児童を養育する場」で、親と子が完璧に離れて生活する場所である。子どもたちが入所するときの理由は、戦後直後は、父母の死別や行方不明など、父母と生活することが、物理的に不可能になったものが主だった。
しかし、現在、上記の理由で入所するというのは殆どなくて、主な入所理由は、実親からの虐待や、保護者の健康上・経済上、一緒に生活することが困難といったものである。ひとえに虐待といっても、明らかに身体的または精神的虐待を受けている場合もあれば、ネグレクト防止のため、ショートステイやトワイライトケアなどの予防策を行っているため一時的に入所している場合もある。
これらの入所理由は、父母と暮らすことは、物理的には可能なものである。しかし、可能ではあっても好ましくないという理由で入所している。その背景には、子どもの権利条約に規定されている子どもの最善の利益を確保するためと考えられる。
こういった現状の中、児童養護施設の課題というものが浮かび上がってくる。本来、過程で好ましい養育がなされていた場合、大人、つまり両親二人に対して子どもは多くても三人という割合の中、関係やかかわりを持つのが常となる。しかし、施設内での職員と子どもの割合をそういったものにするのは難しい。これは、場所、つまりは部屋についても同じことが言えると思う。
中学生や高校生一人一人に、個室は可能ならば欲しいところだ。もちろん、一般家庭でも確実に確保されているとは限らない。
しかし、こういった施設の場合、すべての子どものそういった望みをかなえるのは不可能に等しい。物理的な狭さに限らず、精神的な安らぎ、心のよりどころが確保できず、子どもは満足いかないかもしれない。我慢しなければならないところかもしれないが、施設にいる子どもには何の罪もないのだから、それを我慢しろというのも酷だろう。ほかにも考えてみる。
たとえば、携帯電話はどうだろう。いまどき小学生ですら持っているという話を聞く。さすがに、小学生・中学生から持つのは早いと個人的に思うが、高校生くらいになると持っていない人の方が珍しくなってくる。そのときに施設内の高校生が、携帯電話を持つことは贅沢だろうか。
たしかに携帯電話を持たせることにより、月に支払うお金や、携帯電話を持つことで生じる危険性を考えると、施設の対場から考えると、そう簡単には許可するここができない。しかし、その子が携帯電話をもっていないという理由で、周りの話題についていけないかもしれない。そういったメリット・デメリットを考えると、この問題は難しい。
ほかにも、人間関係についても挙げられる。最初に、現代の主な入所理由に「虐待」があるということを記述した。つまりは、普通の集団に比べて、被虐待児が多いわけだ。そして、親と離れて生活しているため、アタッチメントが、比較的形成されていない子も多い。そういった環境の中であれば、日常生活の中で問題がおきていると考えてもおかしくはない。
一対一での喧嘩もあれば、一対多数のいじめだってありえる。ほかにもいくらでも考えればあるだろう。こういった問題に取り組みながら、家庭への再統合や子どもたちの自立についても、考えなくてはいけない。日常のも問題も大変だし、それを負担する職員についても配慮を怠ってはいけない。日常的に追われているのは、肉体的にはもちろん精神的にも余裕がなくなってくる。それが、長期的に続くことにより、日常職務において、正式な判断ができなかったり、判断が鈍くなったりするとも考えられる。
また、余裕がなく子どもに当たってしまって、それがエスカレートして施設内での職員による虐待が起こる可能性だってある。そうなったら本末転倒、虐待から逃げたはずなのにまた虐待にあってしまう。そんなことがあってはならない。しかし、なりかねないという現状が事実である。
この現状を改善することはとても重要だ。人間関係については、子どもと特定の保育者・職員との間にアタッチメントが形成することで、少しは改善されるかもしれない。
ほかには、職員の負担を少しでも減らすことにより、施設内虐待を防ぐこともできる。職員の定期的な休暇、十分な職員配置、カウンセリングなどを行うなど、改善の余地はある。
しかし、今起きてる問題だけやればいいのでもないのだ。まずは、虐待の予防。結論から言えば、虐待を減らせば入所する児童が大幅に減る。だからこそ、虐待を未然に防ぐ。または、虐待の早期発見が望ましい。それには、地域と子どもたちの関係性や、虐待についての正しい知識・認識が必要となる。
幸い、今日ではメディアが取り上げているおかげで興味関心は広まったと思う。あとは、それを見つけた時に、どこに通告すればいいのか、そういった広く入りやすい窓口が必要だと思う。それは、虐待に限らずいえることだ。
地域とのかかわりを施設が持つことにより、施設内の子と地域との関係ができる。そういった、施設をもっと開いていくことにより、起こるメリットを有効に使うことが今後の施設でやっていくべきことなのかもしれない。
授業で提出するレポートの文章
保育・子ども関連
2008.01.15
CoM0 TrB0
世の中、「これはだめ」「あれはだめ」というのが、今日ではよく言われている。たしかに、いけないことはたくさんあるし、改善されるべきものはいくらでもあるだろう。だけど、今必要なのはまず認識の改善が最優先だと思う。
なぜそう思うのか。それは、世間には誤認識が氾濫していると自分が感じるからである。21世紀になり、インターネットやテレビなどメディア機関の普及により、情報が蔓延した。そのおかげで、今まで知りえなかったことが、知ることができるようになったし、便利な世の中になったと思う。それはひとつの事実だ。だけど、その影で、得た情報はすべて正しいという考えが念頭にあるため、なにもかも信じてしまう。結果、間違った認識を正しい知識として蓄えていくため、誤認識が広まっていくのだ。
その中で、こどもについても間違った認識がされていると思う。早期教育や少年犯罪の増加の原因についての憶測、これらは簡単に何かひとつのことを解決すればいい問題ではないのではないだろうか。早期教育は、言い換えれば幼少期からの支配だ。親がしいたレールの上を歩く人生。こういえば誰もがよくないというだろう。しかし、「子供の将来のために、習い事をいっぱいしましょう」、「いい会社に入るにはいい大学に、そのためには早くから塾に行かなくちゃ」、といったような考えは、レールを歩く人生とどこが違うのだろうか。たしかに、それらの親の行為の結果、こどもが得るものは大きいと思う。もしかしたら、才能が開花するかもしれないし、しっかりとした大学、会社に入れるかもしれない。だけど、それのせいで必要な幼少期が奪われるのは間違っているのではないだろうか。これは早期教育がいい、早期教育はいいことしか起きない、といい面ばかりをメディア等が誇張して報道するため、世間はそのまま信じた結果なのではないだろうか。少年犯罪についてもそうだ。「犯罪が多いのは、ゲームのやりすぎだから、規制をしよう」とか「親の教育が悪いから子も悪い子に育つ」などがあげられる。たしかに、一部のことは当てはまるのかもしれない。しかし、一部と全部では大きく変わってくる。ゲームしている人みんなが犯罪を犯すというのと、ゲームしている子のうち、何人かが犯罪を犯すじゃ
大違いだ。こうやって、一部と全部のように、事実を歪曲・誇張しているからこそ、おかしくなっていると思う。 そして、コレを鵜呑みにしている世間にも非がある。本来、こどもというのは一人の人間であり、大人とこどものあいだに境界線はない。だけど大人は「こども」というくくりで見て、一をすべてと勘違いする。結果、一部に問題があると、全部が悪いといった考えをしてしまうのだ。最近の若者はおかしいとか、いい例だと思う。
こどもはものじゃない。一人の人間である。意思を持ち、個を形成する。自分の人生を歩み、自己決定権を持つ。なのに、大人はそれを奪う。奪い、自分のものにし、また奪う。それではだめなのだ。こどもも個。大人も個。しっかりした認識をもち、こどもを個として扱い、共生する。時として、わかっていても支配的にしてしまうことがある。そういうときに、そのままにせず、過ちを正せる心と認識を私たち大人は持つべきだと、考える。
保育・子ども関連
2007.11.02